カテゴリ:会員のエッセイ( 8 )

第一回 スイスの結婚式       ケーネル・西岡 寛子
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第二回 スイスの誕生日あれこれ      ラーツ 轟 千尋
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第三回 スイスの藪医者閑談        ヌッシィオ 道子
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第四回 出産の思い出      ガナリン 裕見子
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第五回 スイス住宅事情      ブルンネル 淑美
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第六回 スイスの温泉       デューラー美和
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第7回 フランス語圏とドイツ語圏の境に住んで    ドレンハウス信子
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                                        ドレンハウス信子

スイスのいわゆる「ローシュティグラーベン(ローシュティの堀 ※)」の真上に位置するフリブール市(フリブール州の州都)に隣接する町(フランス語側)に私たち一家は住んでいます。フリブール市は、大きく蛇行した川に囲まれた高台に12世紀に築かれた街です。大まかに言ってその北東側はドイツ語圏、南西側はフランス語圏です。町も州も大体人口の3割はドイツ語が母語、7割はフランス語が母語です。

※:フランス語圏とドイツ語圏の境のことをスイス人はこう呼びます。ドイツ語圏のジャガイモ料理ローシュティがフランス語圏では知られていなかったからです

スイスという多言語の国で、その言葉の境ではどうなっているのだろうと日本人旅行者に聞かれたことがあります。日本のような言語環境の国の人から見ると複雑な環境に見えることでしょう。私達はこの境にもう20年住んでいますが、家族内ではドイツ語を使っているので私のフランス語は買い物ができる程度です。それでもそれほど不自由と思わないのはこの街ではドイツ語で曲りなりにも用事が足りるからです。

家族でドイツからここへ移ってきたとき、私はもう40代も間近、ドイツで15年過ごした後でした。この街はフランス語が優勢ですが、お役所でもデパートでもドイツ語を話す人が対応してくれるまで待つ時間さえあればでドイツ語だけでなんとか生活していけます。同じ学校内にドイツ語と、フランス語でクラスがあるところもありますし、もう1つの言葉の学校へ通えるように町が援助してスクールバスを出しているところまであって、子供達はそれぞれ母語の学校へ行けます。フランス語を話す家庭がわざわざ子供をドイツ語のクラスに入れることもありますし、その逆もあります。私のところの下の二人は家の目の前にフランス語の幼稚園があったので幼稚園はフランス語で過ごしました。

 ドイツ語を使うお隣さんで家族パーティを開催したときは子供も入れると30人くらい集まりました。ご主人の兄弟が中心でしたが、弟さんはフランス語を話す人と結婚していて、フランス語圏の真ん中に住んでいます。その12歳を頭にした3人の子供たちはフランス語しか話しません。彼の奥さんも、義理のご両親もフランス語だけです。ご主人のお姉さんの1人もフランス語圏に住んでいますから、私に向かってまずフランス語で話しかけてきます。このパーティではこっちの会話はフランス語、あっちの会話はドイツ語、ゲームをしている子供たちはフランス語だけの子供たちに合わせてみんなフランス語。私との会話はドイツ語でといった調子です。誰も当たり前という顔で会話をしています。

この街では、フランス語とスイスドイツ語と標準ドイツ語、それに時々英語が入り混じった会話はちっとも珍しいことではありません。主人の勤め先の大学の研究室の会議はそれぞれが自分の言葉で話すそうです。バスの乗客の会話もいろいろな言葉で交わされていますし、乗ってきた知人に向かって言葉を切り替えたりすることがごく自然で、会話の言葉が突然変わっても誰も振り向きません。

フリブール大学ではどうでしょうか。神学部、人文学系(法律、経済、教育、社会、語学、スポーツ)理科系(物理、化学、数学、地理、生物、医学部の基礎科目を含む)のある総合大学です。スイスでは各州に大学があるわけではありませんから、学生はスイスの各地方からやってきます。

人文学系の学科の多くはフランス語だけ、またはドイツ語だけで勉強ができます。それぞれの言葉で学士、修士コースを取ることができます。もちろん、専門用語や表現をもう1つの言葉で勉強する講義も提供されています。ところが理科系は言葉別ではありません。講義は講義をする人の母語で行われ、実習の指導も指導者が話す言葉になります。グループによってフランス語だったり、ドイツ語だったりするけれど、学生はお互いに助け合っていると主人は言います。

聴講生になって生物の講義を聞いてみようと思ったので、新学年度の1時間目に出かけていきました。生物の1年生の講義は、医学、薬学、生物、生化学の学生の必修科目ですから200人以上が入る講堂での講義でした。女性の講師が教壇に立って、話し始めました。まずは「この中でドイツ語だけ分かる人」30人くらい手を上げます。「フランス語だけ分かる人」やはり20人くらいです。「両方分かる人」3分の2くらいが手を上げます。所属学科別に学年末の試験のやり方、範囲をフランス語で説明して、この講義の資料サイトのアドレスを教えてくれます。講義では教科書(英語の)を最初から決まった範囲づつ扱っていくと言うことでした。

講義が始まり、スクリーンに映った項目(フランス語)についてフランス語で説明していきます。次の画面に移る前にドイツ語で項目が映し出されますが1、2秒ですぐ次のフランス語のものに変わります。ドイツ語だけ分かると言った人が何人か私の後ろに座っていたのですが、小さく「あぁーー」という声が聞こえます。3度目のときにドイツ語の学生が手を挙げました。「あの、ドイツ語の画面をもう少し長く出していただけませんか」、「ドイツ語の画面を長く出しておくと、時間ばかりかかって先へ進めません。同じものが私のサイトへ行けば見られますのでそっちで見てください(ドイツ語での返事)」。またさっさと講義を続けます。2時間続きの真ん中の休憩時間に講堂を後にしたのは私だけではありませんでした。後で主人に講義担当者の日程を見せると、この人はフランス語、この人はドイツ語で講義すると思うと教えてくれました。講義を、時にはフランス語、時にはドイツ語で聞いて、教科書は英語で勉強したら、専門用語を一度に3ヶ国語で覚えられるので能率的だとは思ったのですが、聴講はあきらめました。

では細かい話がしたいときに相手がフランス語かドイツ語しか話さないときはどうなるのでしょう。

勧誘や商品紹介の電話がかかってきますが、一応フランス語圏と見られているところに住んでいますからフランス語です。向こうがフランス語でぺらぺらと話すうちのいくつかを聞き取れるだけですが勧誘の電話だと思うと、向こうが話している途中でも構わずに、「ドイツ語、話せますか」とドイツ語で聞き返します。そのまま切ってしまう人もいますし、「さようなら」とか、ドイツ語で「ドイツ語できませんので、さようなら」といって切る人もいます。楽しかったのは「あっ、私はドイツ語できません。何語ができますか」と聞いてきたので、「ドイツ語と日本語と、あとは英語がほんの僅か」と答えたら「私も英語は一寸だけできるけどー。これじゃだめですね。さようなら」。勧誘の電話だと思うと、フランス語も話す主人も標準ドイツ語で「ドイツ語、話せますか」とやります。効果覿面です。ここのドイツ語圏の人はフランス語もそつなくこなすのですが、フランス語圏の人はドイツ語が苦手です。

アパートの管理人と改装の話をしたときのことです。向こうはフランス語、こちらはドイツ語。主人は旅行中で、いろいろなことを今決めないと職人さんが困るということで私が対応しました。お互いの言葉ではほとんど通じません。管理人に「英語は話せますか。英語のほうがフランス語より分かりますが」と聞いて、それからは英語で改装の説明を聞き、タイルの色決めをしました。

家の台所の改装をしたときに監督をした人は両方できましたが、作りつけた大工さんはフランス語だけなので二人でフランス語を話していました。そこへ花崗岩の作業台の寸法を取りに来たのはここから15kmくらいドイツ語圏へ入ったところにある会社の人でした。少しどいてもらえば作業がしやすいところでも、「ちょっとすみません」も言わずに黙々と寸法を測って私に向かって「じゃ」といって帰って行きました。ドイツ語圏の方へ向かって少し入ってしまうと日常でフランス語を使う機会がほとんどなくなってしまうのです。

住所がフランス語圏なので家電もフランス語圏のサービスセンターの管轄になります。洗濯機が壊れたときに来たサービスマンもフランス語だけです。壊れたところを見つけて私に説明してくれるのですがよく分かりません。彼が携帯で本社へ電話してドイツ語の分かる人に説明して、私はその人から説明を聞いたこともありますし、私が娘の勤め先へ電話して娘に電話通訳をしてもらったことも有ります。街の電力会社に用事で電話したら、「ドイツ語の分かる人が今一寸いません。一寸待ってください(片言のドイツ語)」と言われてしばらく待たされてからドイツ語が聞こえてきました。本社ではどうしようもなくて、ドイツ語圏内にある支店に切り替えて、そこへ繋いだことが分かりました。用事を説明したら、「本社の方へ伝えておきます」と言ってくれました。時間はかかりますが何とかなるものです。こちらがどうしても分かって欲しいことで、向こうがフランス語だけと分かっているときは子供の誰かに連絡や説明を頼みます。

 お隣さんも、二軒長屋の隣はフランス語を話すベトナム系、その向こうはフランス語が母語、その隣はドイツ語が母語、その先はドイツ人夫婦、と言うのがどこでもごく普通で、顔を見ればそれぞれの言葉で挨拶くらいはします。

ここでは日常生活で2つの言葉を操り、下手も上手も気にしない世界が広がっています。
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                                       デューラー美和

 
スイスにも温泉があることをご存知でしょうか? 山国のスイスにはあちこちにアルプスのミネラルをたっぷりと含んだ温泉が湧き出ています。 日本の温泉との基本的な違いは水着を着ての混浴であることと、水温がほとんどの場合、体温程度の35~8度に抑えられていることです。そのような違いはありますが、入浴後の心地よさは同じです。

ヨーロッパでは今ウェルネスという言葉がちょっとしたブームになっています。 最近の旅行代理店のカタログにはウェルネスホリディと言う言葉がたくさん使われていますし、エステでは「ウェルネスタイムを取りましょう」などというコピーがあります。ゆっくりと心と体を癒す、そうなると私たち日本人には「温泉!」ということになりませんか? 日本で温泉が大好きになった私たち夫婦は、時間が取れればスイス国内の温泉めぐりをしています。その中から二つの温泉をご紹介しましょう。

つい最近行ってきたのは「ヴァルス Vals」というチューリッヒから車で2時間程度で着く谷間の村です。(http://www.thermevals.ch/?language=en%20 )高速道路から一般道路に入り、更に対向車が来るとちょっと待たなければならないような山道をほぼ行き止りになるまで走る、世界の果てに来たような錯覚を起こす場所にあります。ここは「ヴァルサー」という良質のミネラルウォーターの産地として有名ですが、人口1000人足らずの小さな村です。周辺の険しい山にへばりついたように人家や農作業用の小屋がぽつぽつと離れて建っています。そんな中に大きなビルがどーん!と思ったらそれが温泉つきのホテル。4つのホテルビルに囲まれるように超モダンな角型の建物が目立ちますが、それがこの村自慢の温泉ビルです。

チェックインするとすぐに水着に着替えてその温泉ビルの中に入りました。「うわー!」と思わず声が出るほどに何もかも超モダン建築スタイル。地元の自然石をふんだんに使った、直線を強調した建物内部は、まるで未来世界に紛れ込んだような錯覚を起こします。モダンであると同時に原始的な雰囲気が満ち、エジプトのピラミッドと共通するような単純な美しさを感じます。これをデザインしたのはペーター・ツムトール(Peter Zumthor) というスイス人建築家で、この建物を見るのが目的でここまで来る人もいるとの話です。大きなガラス窓、というよりもガラス壁からはこの建物とまったく対照的な牧歌的景色が楽しめます。

さて本題の温泉ですが、ここには5種類のお風呂・・・室内と室外プール(要するに露天風呂)温湯(42度)と冷湯(14度)、それに花湯があります。室内・室外・花湯は36度で、何はともあれと私たちは露天風呂に行きました。日本人にはぬるすぎる気がしますが、外は雪景色、湯気がふわふわと立ち上がっている中に浸かっていると幸せいっぱいの気持ちになります。木曜日の午後という時間のためか、人もまばら。広いお風呂を文字通り縦横無尽に平泳ぎ。魚になった気分です。(飛び込みは禁止です)

それではと次に花湯へ。花湯の入り口からはすでに甘いにおいがしてきます。水中にはたくさんの花びらがゆらゆらと揺れています。たっぷりと首まで浸かって甘い香りを楽しんだら今度は室内温泉へ、そして温湯へ。42度というのはこちらの人にとってはかなり熱く感じるのでしょうか、皆さん、入ったと思ったらすぐに出てゆくのです。私は「ああ、これこれ!これが気持ち良いのよねえ!」と日本の温泉を思い出して一人感動してしまいます。しばらく浸かったら「そうだ、これは体を温めるから一番最後の締めとして入ろう」と思いつき、今度は冷湯へ。が、あまりの冷たさにびっくりして足先だけで遠慮してしまいました。でも他の皆さん、結構浸かっているのです。「よくこんなのを風呂と呼べるなあ」というのが正直な気持ちです。

というような感じであっちへ行ったりこっちへ来たり、一つの建物内での温泉めぐりという楽しみ方ができます。

一日中温泉に浸かっているわけにはいきませんから、余った時間はスイス人の大好きな散歩、そしてマッサージやエステ。これもせっかく温泉に来たのだからとちょっと贅沢をして試してみるのもいいものです。「ああ、ゆったりとした気分!」となること請け合いです。

温泉といえば夕食の楽しみも洋の東西を問わず同じです。ここヴァルスの温泉ホテルでもすばらしい夕食が待っていました。 ウルス・ディートリッヒ という有名な料理長がそのホテル専属となってからは食事が目的のお客様もたくさんいらっしゃるそうなのです。お好みで注文もできますが、セットメニュー、いわゆるシェフお任せのメニューがすばらしい。ヌーベル・キュイジーヌ式のお皿が次々と(デザートも含めると)6種類、そのどれもが「うーん、さすが!」と思うようなおいしさと盛り付けです。「久々に料理そのものを堪能した、こんな山の中で!」というのが偽らざる感想です。

さて、ではもう一つの温泉、「ロイカーバード Leukerbad」を紹介しましょう。(http://www.leukerbad.ch/de/welcome.cfm)こちらはチューリッヒからはアルプス超えをしなくてはならず、車で4時間以上かかります。私たちはいつもカンダーシュテークという村まで車で行き、そこで車両ごと電車に乗り入れるカートレインを利用します。車の運転を一休みしながら長いトンネルをくぐりアルプスを抜けて行きます。ゴッペンシュタインでカートレインを降りて、また一時間ほど美しいヴァリス地方の景色を楽しみながらの運転です。

こちらはスキー場もある温泉場で、スキーの後は温泉へと、なにやら信州あたりにありそうなセールスポイントですが、確かに両方楽しめます。スキー場としての規模は他の所に比べたら小さいとは言いますが、日本に比べたらまだまだ特大といってもいいでしょう。スキー場行きのゴンドラは村のほぼ中心部から出ています。スキーをしない人もできたら一度はゴンドラに乗って上に行き、レストランでコーヒーでも飲みながら景色を楽しむことをお勧めします。アルプスの見事な山・山・山。谷間の温泉ホテルに滞在しているだけでは知りえない見事な景観に必ず感動します。

さて、そのロイカーバードですが、ここは昔から有名な温泉場で、ローマ時代から病気や怪我の治癒客が集まってきたという長い歴史があります。前述のヴァルスに比べると村自体が2-3倍は大きく、ホテルも大小さまざまあり、独自の温泉を持つホテルもたくさんあるようです。そんな中で私たちが毎回泊まるところはホテル内に4種類の温泉プールがあり、さらに地下道を通って「豪華」アルペンテルマ(公共の総合温泉施設)にもバスローブのままで行けるというホテルです。このアルペンテルマに「豪華」という言葉がつく意味を少し説明しましょう。

このロイカーバードという自治体は3年前に実は倒産してしまったのです。村のお金をたくさんつぎ込んで温泉事業を拡大させてゆこうと村長さんや村議の人たちが考えたのですが、予想通りにはいかなかったようです。あわてて手持ちのホテルを売ったり、いろいろと工面したようですが、ついに倒産の憂き目に会い、残ったのは借金と豪華なアルペンテルマ。そんなわけで私たちが泊まるホテルも、そのアルペンテルマも以前は村営だったのが今は売却されてドイツ人の経営となっています。

このアルペンテルマは村の中心部にあり、室内プールと露天風呂、ショッピングモールが1階に、2階はたくさんのマッサージ室や医者の診察室、クラランスの美容施設など、3階はローマ風呂。村の大きさに比べると「うーん、やっぱりお金をかけすぎたか?」という気持ちが起きます。

初めてここに来た時に、その3階にあるローマ風呂を体験してみました。ここは混浴なのに例外的に全員が裸にならないといけないのです。「えーっ?!そんなこと知らなかったよー。」と入り口前で文句を言っても後の祭り、とにかくやってみなければわからないのだし、と意を決して中に入りました。風呂に入ってはタワシの様な物で体をこすってもらい、また入っては次はマッサージ、と決められたプロセスに従って裸の私たちは素直に移動するしかないわけです。うつむき加減の裸の私。それでも慣れてくると結構平気になって「あ、この人は上半身に脂肪の付きすぎ!」なんて思うようになる自分が不思議。何しろ男も女も一糸まとわずの姿であっちへ行ったりこっちに来たりと、うろうろとしているのが哀しくもあり可笑しくもあるという感じです。「そういうのには絶対に行きたくない!」という人は、いろいろなコースの中からローマ風呂をはずしたのを選べばいいわけです。

温泉の効能の違いは良く分かりませんが、ロイカーバードでもやはり私のお気に入りは温湯に尽きます。ホテル内の洞穴温泉は43度、私向きです。2-3分もじっとしていると額から汗が出るのを感じます。洗い場がそばにないだけで、まったく日本の温泉のようです。

こちら、ロイカーバードでもあっちこっちの温泉をかわるがわる楽しみ、マッサージやエステを受け、そして夕食の時間。日本だったら浴衣姿で夕食なのですが、ヨーロッパではそうもいきません。きちんとした服に着替えて、ストッキングをはき、口紅までつけて、さあ、ダイニングルームに移動です。こちらも味は決して悪くはない。でも以前に比べたら一つランクが落ちたかなという印象でした。やっぱり経営がドイツ人に代わったからか? いや、コックさん自体がやはり別の人になっていました。これも経費節減のためか? 良く分かりませんが、地元の有名なヴァリスワインを楽しみながら温泉の夜は更けてゆきます。

このほかにもスイスにはさまざまな温泉があります。流れるプール式温泉を備え付けたところもあり、若者や子供がきゃあきゃあと遊んだり喜んだり、いちゃついているのか泳いでいるのかはっきりしないところも。また、ホテルによっては病気や疾病後の治癒だけを目的にしたところもあり、そのようなところでは医師が常駐し完璧に静かな環境を作っています。

私たち夫婦のスイス温泉めぐりはまだ終わりそうもなさそうです。みなさんもウェルネス、いかがでしょうか?
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スイスはヨーロッパのお金持ちだが、驚くことに大多数の人が借家に住んでいる。2000年の統計をみても、マンションや一軒屋を買い、自分の家を持っているのは全体のたった33%である。これは英国(68%)、オーストリア(55%)、オランダ(50%)、ドイツ(39%)などに比べてぐんと低い。 

ただし、これも州によって大きな違いがあり、スイスの田舎と呼ばれるヴァリス州では他州をグンと引き抜き60%の人が自分の家を持っている。都会より田舎の方が土地も建設費も安くつくことが原因のひとつだが、セカンドハウスとして所有しているシャレーや休暇用アパートも持ち家として統計に入っているからである。実際、ヴァリス州に住んでいると、知りあいの多くが近くにセカンドハウスを持っている。自分で建てたり買ったりした人もいるが、先祖代々から遺産相続をした人が多いようだ。私の息子たちは試験勉強の時、家では気が散るからと、たいていは友人同士でどこかの山中のシャレーや山小屋に閉じこもりに行く。今まで家賃を払って借りたことはなく、いつも友達の家族の所有しているシャレーに泊り込みに行っていた。実際私たちの知り合いの家族の多くがセカンドハウスを持っている。たまたまそんな友だちが寄り集まったのかもしれないが、ヴァリス州に住んでいる私たちのまわりでは山荘を持っているのが普通のようで、子供たちに「どうして家にはないの?」と訊かれたものだ。

私は1975年にスイスに来て、すぐ賃貸アパートで結婚生活を始めた。最初のアパートに  13年住んだ後、一部屋多いアパートに引越し、4年半住んだ。どちらのアパートもおおいに気にいり住み心地満点であったので、マンションを買ったり、家を建てたりしたいという願望はなかった。ところが思いもよらず遺産相続をし「さて、このお金をどうするか」の使い道がマイホームを建てることになったのである。自分の家を持ってみると「やっぱりこの方がいいなあ」と思うことも多い。マイホームに住み始めてまだ10年位だが、もうずっと住んでいるような錯覚におちいる程、住み心地が良い。私の経験を通してスイスの住宅事情をのべてみたい。 

こちらでは普通の家族用のアパートは3部屋半とか4部屋半という風に表現する。新聞などの広告には3 ½ とか4 ½とか書いてある。3部屋半というのは寝室が二つとリビング、キッチンにダイニングがついているアパートのことを言う。日本的に言えば、2LDKに当たるのであろう。私たちが住み始めた最初のアパートはこの3部屋半と呼ばれる部屋割りで、約75㎡あった。7所帯入っている集合住宅の4階で、エレベーターはなかった。入り口を入って右側にリビング、ダイニング、キッチンがあり、左に二つの寝室とバスルームがあった。リビングにはドアがついていて閉めれば一つの部屋となり、客用の寝室として使えたし、見晴らしの良い大きなベランダもついていた。駅から10分、小学校から5分のところで静かな環境の中に建っており便利で住み心地も申し分なかった。スイスの家はどんな安アパートでも地下にシェルターがついており、普段は貯蔵庫として使えるから家の中が片付く。自分の地下室と隣の地下室の境は隙間のある木で区切られているのでよく見えるのだが、どこもすごい量の食料品やワインを貯蔵している。私たちのアパートには二つの地下室に加えて屋根裏もついており、物置に使えた。それにいくら今から30年近く前のことだしても、320フランという家賃は安かった。暖房用の灯油代と管理費は別に70フランほど払ったが、当時の夫の安月給でも住居費の占める割合は少なかった。 

子供が二人生れ、一階下の奥さんがよく子供を見てくれた。夜、子供が寝てから夫と出かける時も、一言声をかけるだけでちゃんと見てくれた。一軒屋に住んでいたら、そう簡単には子供をおいて出かけられなかっただろう。しかし、このアパートで一番困ったのは洗濯のことだった。日曜日はカトリックの習慣で洗濯できないから、7軒ある家族を曜日では振り分けられない。それで月に2回、日にちを決め、二日間続けて私の洗濯日があった。小さい子供をかかえて洗濯物が多かったので、これには困った。 

子供たちが小学校に入った頃、兄弟喧嘩も多くなり、子供部屋がもう一つ必要になった。トイレも一つでは朝が大変だったので、もう一部屋多いアパート、いわゆる4部屋半アパートを探すことにした。偶然だがすぐに新しいアパートが見つかった。学校のすぐ後ろで現在のアパートからも5分と離れておらず、見に行って夫も気に入り、3ヵ月後の3月の引越しとなった。ここヴァリス州では3月と10月が引越しシーズンで、賃貸契約をするときの契約書に明記されており、契約解除をするときはその3ヶ月前に通知をしなければならないとある。時期をのがすと、半年待たなければならないことになる。 

引越しが決まり、片付けを始めたのだが、大きな地下室と屋根裏の物置に捨てられなかった物がいっぱい詰まっていた。私が日本からもってきた古い洋服や、子供が学校で作ってきた工作作品、おもちゃ、夫の独身時代の家具や本などおくところがあるからいけないのか、ガラクタであふれていた。新しいアパートには地下室が一つあるだけである。 

新しいアパートは駅から徒歩7~8分のところで、車を運転しない私には立地条件がとても良かった。小学校の裏で子供たちは徒歩1分で学校に、町の中心地へも徒歩3分で行けた。課外活動や他のお稽古事にいく子供たちの送り迎えをしなくてもよかった。同じ年頃の子供のいる家庭と同階で、地下に遊び部屋があり、天気の悪い時など子供たち同士で遊んでくれて、親としては助かった。4部屋半(3LDK)で110㎡あり、週に一度の洗濯日に加えて週末も空いていれば使えた。子供一人に一部屋で、喧嘩も少なくなった。トイレも二つ、食器洗い機もあった。家賃は倍額になったが、それに相応する生活向上があり、高いとは思わなかった。 

そこで3年ほど暮らした頃、前述のようにまとまったお金がはいり、マンションを買おうということになった。新聞の広告を見て、売出し中のマンションを見に行った。間取り、場所、金額の気にいったところを見つけるのは難しい。なにせ今住んでいるところの環境もよし、急ぐこともない。 

そのうちに、銀行から借金をすれば、小さいながらも一軒家ぐらい建てられるかもしれないということになった。夫は建築製図士である。他人の家の製図ばかり描いてきた。自分の家の設計ができるとは夢にも思っていなかったという。「思い切って家を建てよう!」ということになり、土地捜しから始めた。この町では高級住宅街といわれている高台の見晴らしの良いところに売り地があった。一区画約850㎡、そのまま買ったら家の建設費が相当少なくなる。私たちは小さな家でいいのだ。借金は最小限に押さえたい。おそるおそる半分だけ売ってくれませんかと聞いてみた。普通は多分しないであろう部分売りを倒産間際だったその不動産屋はすぐ了解してきた。こうして、大きな家の並んでいる高級住宅街の真中に小さい我が家を建てることになった。
 

シェルター 

スイスで一軒家を建てる時、まず地下室用の穴を掘る。義務であるシェルターを作るためだが、今はこの義務もその村や市によって、多少変わってきている。ブリッグ市でもシェルターを持つことは義務であるが、市が作った市民用のシェルターが学校の地下などに十分あり、その使用権利を買えば、自宅の地下にシェルターを持つ必要はないと変わっていた。この権利を買うのと、厚い壁と鉄のドアでシェルターを地下につくるのと費用は同じぐらいだった。なにしろ狭い家なので、私たちは権利を買い、地下室にシェルターは作らなかった。厚い壁とドアの分だけでも地下室が大きく使える。それにスイス人の多くが現実的にはシェルターがあっても、核戦争になると何の役にも立たないと思っているらしい。
 

設計図 

夫が建築製図士なので、私の意見もよく取り入れてくれた。設計図は何度も書き直したものだ。現場監督も夫が担当し、直前になって変更したところもあった。昔ながらのしっかりした建材を使った家を建ててくれた。これは職人気質というものかもしれない。寝室を2階に3部屋、1階が生活の間として、キッチン、ダイニング、リビングと私の仕事部屋。地下に客間と洗濯室。建ぺい率40%を最大に使って建てた。私は仕事を始めた頃で、忙しくなったのに、一つ一つ、建材や色や施工業者を選んでいくのは大変なことだった。夫は全てのことに私の意見を求めた、いや、訊いてくれたという方が良いのかもしれない。面倒だと思ったこともあったが、お陰で一緒に家を建てたという感動が残っている。住み始めてから、どうしてここをこうしてしまったのか、という所もあるが、自分も了解したことだから文句は言えない。同じ頃に家を建てた友人が、自分の主人は全て建築家と二人で決めてゆき、妻の意見など訊いてくれなかったと言っていた。
 

住宅借金 

家は夫と私の二人の名義で登録し、同時に借金も二人の名前でサインした。最小限にするつもりだった借金は、家を建てている間にだんだんと欲が出てきて、良い材料を選んだりしているうちに結構な額になっていた。借金というのは落ち着かない。なるべく早く返したいものである。ところが、銀行からお金を借りる手続きをしてくれた会計士が「この借金の元金は貴方たち二人が仕事をしているかぎり、一銭たりとも返却するべきではない。利子だけ払い、もしまだお金に余裕があるなら、別に貯金をしなさい」と言うのである。住宅資金を銀行から借りる時、第一資金と呼ばれるものは、抵当とする建物と土地の3分の1ぐらいに相当する額だったと思うが、この借金に対しては元金を返さなくとも利子だけ払っていけばよい。当時の利子は6.75%で(今はなんと3%前後)利子だけでも私たちにとっては相当な額だったので、この忠告は有難くその通りにした。そして借金をしたのと同時に「第3の柱」と呼ばれている貯金を退職後の借金支払い用に始めた。妻も仕事をしていれば、自分の「第3の柱」の口座を持てるので、夫とは別に私自身の口座も作った。借りているお金に対して支払う利子と、貯金して得る利子との差は普通2%前後であろう。預けているお金に良い利子がつけば、その差は小さくなる。さらに税金申告をする際、借金に対して支払っている利子を収入から差し引けるので課税対象額は低くなる。そこから得る減税額も考慮に入れれば「借金はそのまま返却しない方が利が多い」とこの会計士は忠告してくれた。

(スイスでは外国人の短期滞在労働者からは源泉徴収税を徴収しており、収入額からの控除はできないが、スイス人やビザCを持っている外国人はサラリーマンでもいわゆる青色申告ができ、いろいろな控除項目がある。又、老後の蓄えとして、いわゆる国民保険、厚生年金の他に、「第3の柱」と呼ばれる個人貯蓄を奨励し、率の良い利子と貯蓄額を課税所得から控除できるという好条件をつけている)

スイスできっちりと建てられた家は何百年ともつことが多い。家の査定をするとき、スイスでは減価償却を100年から125年で計算すると言う。日本では20年から30年、長くとも50年であろう。私と夫があと30年生きるとして、40年使った家の価値はまだ60%以上残っているということになる。土地の評価が上がっていれば、もっと価値が残っているかもしれない。そして、ヴァリス州では一等親の遺産相続税がゼロである。ということは、借金をつけて家を子供に残しても、まだおつりが来るのである。こう考えれば借金があっても気が楽なものである。 

一軒家のマイホームに住んでみると、やはり賃貸マンションより住み心地が良い。洗濯はいつしても良いし、子供たちがボリュームいっぱいに音楽をかけていても近所から文句もいわれない。夜中の12時にお風呂に入ることもできる。マンションに住んでいるときは、夜の10時以後にはお風呂に入れないとかいろいろの規則があり、それを守るのがスイスに住む限り普通のことであり、スイス社会の掟だと思っていた。人間社会、どこでもお互い仲良く生きてゆくには規則を守らなければならないのだから、それぐらいの規則はあって当然と思っていた。しかし、その規則を守らなくとも良くなった今、振り返ってみると、やはり不便だったなあと思う。 

庭仕事は苦手だったが、始めてみると楽しいものである。少しだが、畑も作った。日本から種を持ってきて、春菊やしそ、葱やチンゲン采を作ったりしている。もともと大工仕事が好きだった夫は、暇があればあちこち住みやすくなるように金槌をふるっている。貸しマンションに住んでいた頃は、絵をかける為の釘一本打つのにも気を使ったものだ。 

はっきりとした数字はわからないが、最近スイスでもマイホームを持つ人が増えてきているという。利子が安くなったことが原因のひとつかも知れない。実際売り出されているマンションの価格を見ても、私たちが捜していた頃よりずいぶん安くなっているようだ。ここヴァリス州の家賃はまだまだ安いが、チューリッヒやジュネーブに住んでいる人が毎月何千フランも家賃を払っているのを聞くと、人事ながら買う方がいいのではないかと思ってしまう。 賃貸アパートで満足していた私だが、実際マイホームに住んでみてその差をじっくりと味わっている。
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時の経つのは何と早いことだろう。娘はもう23歳、息子も17歳になったが、今でも鮮やかに覚えている出産について書いてみよう。


娘の出産


私たちが結婚した時、日本の叔母が「外国で生活するのだから、早く子供を生んで自分の身内を作りなさい。」と言ってくれた。イギリスで新婚生活を始め、その後ブラジルへ移り3年ほど暮らしたが、二人だけの自由な生活が楽しく子供が欲しいとは思わなかった。そしてスイスに帰国してまもなく妊娠した。当時勤めていたが、つわりもきつくなく順調だったので、7ヶ月目で退職した。

外国での初めてのお産で少し不安もあったが、子供が生まれるという喜びの方が大きかった。私より日本の母のほうが心配していたようである。ブラジルでドイツ語の基礎を学び、スイスでの生活でも日常会話ぐらいは困らなかった。しかし分娩時に言葉が通じなくては不安なので、妊娠・出産についてわかりやすく書かれたドイツ語の本を買い求め、何度も読んでドイツ語の語彙を覚えた。出産のための体操に通い、特に分娩時の呼吸法が役に立つと思い練習をした。しかし実際役に立ったかどうかはわからない。また育児講座に夫と二人で出席したが、ドイツ語とはかなり異なるスイスドイツ語であったため、ほとんど聞き取れなかった。それでも赤ん坊の人形を使ってオムツの仕方やお風呂の入れ方などを教えてもらったのは役に立った。

出産が近づいた頃、母から手紙をもらった。「お産は女の闘いだからね、しっかりやりなさい。」と書かれてあり、何となく気持ちが引き締まった。予定日の数日前に軽い陣痛があり、私も夫も「さあー、始まった。」と急いで病院へ駆けつけたが、病院のベットに横たわっている間に、陣痛はおさまってしまい、間違い警報であると家に戻された。一晩おいて次の日の夜また陣痛が起こり、今度は本当だという直感があったが、夫はまた間違い警報だろうと相手にしてくれない。最初のときに、お産にならなかったことを会社に報告し、格好がつかなかったらしく、絶対確実でないと病院には行かないと決心していたらしい。それで、今度は本当だと保証するとやっと腰を上げてくれ、陣痛がかなり進んでから入院した。入院時には男の子と女の子、両方の名前を書類に書き入れて持参することになっている。

病院ではすぐに分娩室に入り、若い助産婦さんと年配の看護婦さんの二人が付き添ってくれた。分娩が近づくとかかりつけの医者(当時病院の産婦人科部長も兼任)のニック先生が電話で呼ばれ、立ち会ってくれた。幸いお産は早く進んで、それほどの苦しみもなく、夜中の1時半に娘が生まれた。先生はもとより、助産婦さんも看護婦さんもとても親切で、信頼してお任せすることができた。お産が終わり、先生も帰られたころ、看護婦さんが、「ガナリンさん、とてもよくやりましたね。」と褒めてくれとても嬉しかった。

結婚直後私は健康保険のプライベートに加入していて、病室は個室だった(スイスの健康保険には、プライベート、半プライベート、一般と3レベルあり、掛け金に相応して待遇に差がある)。一般病棟の産婦の赤ん坊が赤ちゃん専用の部屋で寝かされていたのに対し、個室の産婦は赤ん坊を昼の間同室することができた。娘のベビーベットには、娘の名前と看護婦さんが描いてくれた可愛い蝶々の絵がついたカードが掛けてあった。日本の赤ちゃんだと産着を着ているが、スイスでは生まれたばかりの赤ちゃんにもちゃんとしたベビー服を着せる。

個室の産婦には、一般病棟とは違った特典があり、例えば毎日看護婦さんが部屋に来て、産後の体操をするよう指示してくれ、ベットの上で20分くらい体操をした。また、病院の図書室からですと言って、押し車に本や雑誌を詰めて病室に訪れ、「読みたい本はありませんか?」と尋ねられた。日本だと産後に目を使うと視力が落ちるといわれ、本などは読まないよう言われているのに随分違うなあーと思ったものである。私はもちろん何も借りなかった。

出産した日から二晩目の夜、自分はこの子を無事育てられるのだろうかという、とてつもない責任感で胸が押しつぶされるような気がして、部屋には誰もいないことを幸いに、夜中にベットの上でワーワー泣いてしまった。子供が生まれて嬉しいはずなのに、どうしてこんなに悲しいのか不思議であった。夜中に泣いたことは夫にも誰にも話さなかった。昼間は悲しくなかったし、自分がおかしいと思われるかもしれないと思ったからである。

ブラジルから帰ってきて間もなく、勤めていて近所付き合いもしていなかったため、スイス人の知り合いもいなかった。それで私が入院している間訪ねてくれたのは、夫と夫の家族、夫の会社の同僚や奥さん達だけであった。その婦人達はベビー服やおもちゃ、花などをプレゼントしてくれた。夫の家族からは、生まれた娘に金のネックレスや宝石のついたペンダント、そして服をプレゼントされた。日本からは、出産祝いのお金や3年分ほどのベビー服が何箱か送られてきた。

ほかの病室のスイス人女性達は分娩後すぐにシャワーを浴びていたが、私は炎症を起こしたらと怖くて数日はシャワー室にも入らなかった。入院中のある日、母子相談所の看護婦さんが訪ねてくれ、「ガナリンサン、コンニチハ、ワタシハ、ニホンゴガ、ハナセマセン。」と片言の日本語で自己紹介してくれた。それまで私の住む地に日本人はいなかったため、私はそのハニー看護婦にとても親しみを感じた。彼女のお姉さんが、牧師である夫と共に日本に滞在しているということであった。

産後の経過も順調で、一週間後に退院した。娘のときの看護婦さんたちは皆とても感じのいい方達ばかりだった。退院の日には、看護婦さんたちにケーキの差し入れをし、夫は「またお願いします。」と挨拶した。

日本では出産後の婦人はとても大事にされ、実家に帰って二、三週間ゆっくりできるのが普通である。スイスではそういう習慣はないようで、家に帰ればすぐに家事が待っている。我が家では夫が一週間休暇を取ってくれ、いろいろ手伝ってくれたが、私自身もかなり動かなければならなかった。その後まもなくクリスマス休暇に入ったので、夫の実家に帰り、そこで10日間くらいゆっくりさせてもらった。産後の体を回復させるにはできるだけ休養をとるのがいいと私は思っていたのだが、スイス人の女性は退院してすぐに買い物に出たり、重い乳母車を押して外出する。欧米の女性とアジアの女性の体力の違いをつくづく感じたものである。

退院してまもなく、母子相談所のハニー看護婦が家に訪ねてきてくれ、娘の運動神経が正常かなどの検査をしたり、いろいろアドバイスをしてくれとても心強かった。家庭訪問はよほどのことがない限りこの一回きりだが、何か質問があれば、電話での育児相談を週に3回受け付けている。一度娘が1週間もうんちをせず、さすがに心配になって電話で相談すると、母乳はとても消化がいいので大丈夫という返事だった。

又、退院して一ヶ月くらいすると、『両親への手紙』という3ページくらいの小冊子が届いた。読んでみると生後一ヶ月の娘の成長にぴったり合った内容が書いてあり、読みながら、「確かにこうだわ、娘にもこういうことがあるわ。」と我が子の成長が順調なことがわかりとても安心した。また第一号にはホルモンの変化による出産後の産婦の気分の変化(マタニティブルー)について書かれてあり、「ああ、これが私が病院の個室で訳もなく泣けてしまった理由なんだ。」と合点し、異常でないことがわかり安心した。

この小冊子は一ヶ月くらいの間隔をおいて届き、その時期の赤ん坊の心身の成長について詳しく描写されていて、私は次の号が来るのを楽しみに待っていたものである。スイスでも核家族で親の援助を受けられない若い母親が育児でとまどうことがないようにという配慮かららしい。優しい文章で、詩やイラストなども載っていて、読んでいてとてもほほえましい冊子であった。また4ヶ月目頃からは、離乳食についてとか、子供の遊ばせ方、自分の時間を作るにはどうしたらよいかなどのアドバイスも書いてあった。

ハニー看護婦が週に一回育児相談を行い、1歳以下の赤ちゃんを持った母親が定期的に出向いて、身長・体重の測定と簡単な検査、そして健康や離乳食などに関するアドバイスをしてもらえた。私は病院で知り合ったスイス人女性といつも一緒に通った。私の娘と彼女の赤ちゃんは同じ日に生まれたので、お互いの赤ちゃんの成長を比べておしゃべりするのは楽しいものであった。娘が1歳を迎えると、育児相談はなくなり、『両親への手紙』も終った。最近出産した知人の話だと、この小冊子は今はないそうで残念に思う。娘はその後も順調に育ち、夜泣きもしなければこれといった病気もせず、両親にとってはとても楽な子供であった。



息子の出産



息子のときはまったく違った出産や育児を経験することになった。よく男の子は手がかかると言う話を聞くが、生まれる前から大変だとは思わなかった。

二度目の妊娠当時も勤めていたが、つわりがとてもきつくすぐに退職させてもらった。食欲はまったくなく、7ヶ月に入ってようやく普通に食べられるようになった。5ヶ月の検診で体重が妊娠前より減っていて心配したが、胎児は成長に必要な栄養は母体から取っているので心配ないといわれ安心した。今回も妊娠体操に通い、今度こそ効果が出るようにと呼吸法も練習した。高年出産だったため心配していたのだが、「痛みがきつい場合には薬で和らげられます。」という病院側の説明を聞いて、内心それに期待していた。お腹が目立ってきた頃、夫が娘に「弟と猫とどっちが欲しい?」と聞いたところ、娘は即座に「猫」と答えたそうだ。その話を思い出すと今でも皆で笑ってしまう。

予定日ちょうどに陣痛が始まり、ぎりぎりまで家で我慢してから入院した。夜の7時半であった。一度目の時にお世話になった先生はもういらっしゃらなく、新しい産婦人科の部長が入ってきた。実は私のかかりつけの産婦人科医はこの先生と合わず、病院での立会いはしてくれていなかった。やはり知らない先生だと不安になるものである。陣痛が相当進んでいたので、私はまもなく生まれるのではないかと予想した。ところが先生は私を診察すると、傍らにいた夫に向って、時計を見て笑いながら、「今夜中に生まれてくれるといいですね。」と言ったのである。それを聞いた私はこの痛みが今夜中続くのかと思い、その途端体中の筋肉が硬直して余計に痛みを感じるようであった。その先生はギリシャ系だそうだが、ギリシャでは男尊女卑なのだろうか。医者なのに苦しんでいる産婦に対する思いやりがないと思い、その先生への信頼感はあっという間に薄れてしまった。先生に頼れないとなると傍らの夫だけが頼りだった。夫が私の背中や脚をマッサージしてくれ、とても楽に感じられた。陣痛が来ると、夫の手をしっかり握って耐えた。痛みがかなり強くなってきたので、助産婦さんに、薬がもらえないかどうか聞いてみた。彼女は「そうですね。」と言ったがくれる様子がない。しばらくして夫に聞いてもらったが、この時もすぐには出そうとしなかった。そのうち痛みがあまりにも耐えられなくなったので、もう一度彼女に頼んだところ、私を診察し、「ガナリンさん、子宮口がもう9センチも開いていますから、あと10分くらいしたら生まれてきますよ。今薬を飲んでも効くまでに10分はかかりますから。」と言うではないか。私は分娩台の上で思わずカーッとなって、「私はさっきから何度もお願いしています。薬が効くまで時間がかかるのでしたら、もっと早くくれたらよかったじゃないですか!」と責めてしまった。その若い助産婦さんはとても良くしてくれていたので申し訳なかったが、やはり副作用などを考え、薬はできるだけ使いたくないのであろう。それならそれで、「痛みがきついときは薬があります。」などと言わなければいいと思った。やがて無事男の子が生まれ、それまでの苦しみはあっという間に過ぎ去った。分娩室に入ってから1時間後に生まれたので、先生が最初に「もうすぐに生まれますよ。」と言ってくれていたら、もっと楽だったろうと思う。

息子のベットには息子の名前と可愛い鳥の絵が描かれたカードが掛けられた。二人目を本当に望んでいた私たちだったが、娘が生まれてから6年半目に生まれてきた息子を抱きながら、私は幸福感に浸った。マタニティブルーについて知っていたので、今回は感情の変化は起こらなかった。

出産して3日目、看護婦さんが点滴の支度をして私の部屋に入ってきて、「輸血をします。」と言った。私は輸血を受ける気は全くなかったので、「けっこうです。」とはっきり断った。するとその看護婦さんは私の顔を厳しい顔で見つめて出て行った。しばらくすると例の医者が入ってきて、「出産でかなり出血したので、輸血をした方が回復が早いですから。」と説明した。「貧血はほかの方法で直しますからけっこうです。」と断ると、「どの血液も黄疸とエイズの検査をしてあります。輸血のどこが悪いのですか?」としつこく聞く。分娩時から印象が悪いこともあり、「エイズのウィルスも最初は知られていず、多くの人が感染しました。黄疸とエイズについて検査をしても、まだ私達に未知のウィルスに感染していないという保証がありますか?」とはっきり言ったところ、とても不満そうに出て行ってしまった。

輸血はよほどのことがない限りしない方がいいというのが私の考えである。この話には余談がある。私が息子を出産した1988年に、同じ病院である老人が外科手術を受け、輸血されたが、その輸血液がエイズウィルスに感染されていたそうだ。あとになってそれに気付いた病院側は、本人に知らせると心配のあまり早く発病する恐れがあるため、患者には知らせず、その患者のかかりつけの医者にだけ電話で知らせたそうだ。しかしその医者はその電話を受けた覚えはないという。95年になってその老人が発病したが、かかりつけの医者はエイズとは思わず、適切な治療ができなかったため、その患者は非常に苦しんだそうだ。数年後にその当時の病院長と外科医相手に訴訟が行われ、病院長が有罪となった。恐ろしい話である。

話は元に戻るが、退院直前に小児科医が来て新生児を診察した。前の感じの悪い看護婦さんが私の部屋に入ってきて、「ガナリンさんの息子さんに結核の予防注射をします。」と言った。私が「それは必要ないと思います。」と言うと、また私の顔を厳しい顔で見つめ、その小児科医に、「先生、母親が日本人の場合は必要ですよね。」と耳元でささやいた。先生が必要ありませんと返事すると、私のそばを知らん顔をして通り過ぎて行った。

息子を出産した当時、病室は二人部屋だった。私より数日前に出産したという同室のスイス人女性は、出産のお知らせのカードを何と80枚も送ったそうである。そのせいで、連日大勢の人が訪ねて来て、隣で大声でおしゃべりするので、ゆっくり休むこともできず閉口した。お知らせのカードをもらえば誰でもお義理で病院にお見舞いに行かなければと思うので考え物である。私は是非カードを送ってほしいと言われた友人達だけに送ったので、毎日二人くらいの訪問だったが、30度を超える猛暑だったため、申し訳ないと思った。その婦人が退院した後、別のスイス人女性が入院して来たが、彼女の場合は毎日、夫と子供達だけが訪ねて来た。ゆっくり休みたいから、カードは一枚も出さなかったと話していた。息子の出産で友人や隣人からいただいたお祝いは、やはりベビー服が圧倒的だった。退院時には本当にほっとした。

私が入院中、夫の叔母が娘の面倒を見てくれていたが、退院後は夫が一週間の休暇を取り、娘の世話と家事を手伝ってくれた。その後、幸い娘の夏休みが始まったので、娘だけ夫の実家に3週間預けることができ、私は息子とふたりでゆっくりすることができた。

息子は出産も大変だったが、育児もとても手がかかった。生まれてから13ヶ月間、夜泣きしてほとんど寝ない子だったので、私も睡眠不足でフラフラだった。これについてはまた別の機会にお話しよう。
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                                      ヌッシィオ道子

 

やっと夏らしく暑くなってきた。晴れの日が続いているからだろうか、このところやたらと鼻の中が乾く。朝はくしゃみが立て続けに出る。オゾンのせいかしらと思っていたが、そのうちに鼻血もよく出るようになってしまった。そんなわけで、耳鼻科へ行くことにした。 

朝早くの約束を取りつけ病院へ行くと、待合室にはもう先にちょっとハンサムな金髪青年が待っていた。ややしばらく待たされて、やっと医者らしいのが現れた。ガリガリに痩せていて、ひょろひょろとやたらと背が高い。それが、顔の両端からはみ出す大きな黒縁の眼鏡をかけているので、とんぼの“おにやんま”のようである。先程の金髪ハンサムボーイが先に呼ばれ、私はせっかく朝一番と思っていたのに、と少し機嫌を悪くした、がしかたがない。待合室のファッション雑誌をパラパラとめくりながら、またしばらく待った。 

やっとアシスタントの女の子が来て、私の名を呼んだ。と、先の青年が入れ違いに待合室に戻ってきた。ひょいと彼を見上げると、片方の鼻の穴にやたらと大きな綿が詰められている。あのハンサムさんが・・・・まあ残念なこと。それが何だかおかしくて、私は下を向いて「プッ!」と笑ってしまった。

小さな部屋に通されそこでまたしばらく待つと、やっと先程の“おにやんま先生”が現れた。やれやれ、医者というのは人を待たす事をなんとも思っていない人種なのだ。“おにやんま先生”は、パッパッと両耳と両鼻の穴を鉛筆みたいな懐中電灯で照らして覗くと、

「鼻の粘膜が、炎症していますね。それが肥大しているので、鼻の中がとても狭くなっています。これ以上炎症がひどくなったら、手術して膜を切り取らなくちゃならないでしょう。どうしますか。」と、言う。

「えっ、手術って、必要なんですか。どのくらい入院しなければならないんでしょう。」
「ええ、一週間位ですよ。」
「で、鼻の形はどうなるんですか。」
私は一瞬、筋の通った細くて形のいい素敵な鼻を思い浮かべた。
「外見は、全く変わりませんから、ご心配なく。」
何がご心配なくだ。なーんだ、そんならやーめとこう。手術なんてしないにこしたことはない。
「ま、今すぐに必要と言うわけでもないので、また悪くなったら来てください。」
と、一件落着。“おにやんま先生”は何かの液をスポイトに取って数滴鼻の穴にたらすと、大きな白い綿をちぎって私の鼻の中に押し込んだ。 

さっきの金髪ハンサム青年は片方の鼻だけだったのに、私ときたらなんとまあ、両方の鼻の穴に大きな綿を詰め込まれて待合室で待つ羽目になってしまった。

若い娘だったら顔から火が出るほど恥じ入ったであろう。が、そんなナイーヴな未熟で傷つきやすい年頃はとうの昔に卒業した。そこは中年マダムの年の功。こうなったからにはと度胸を決めて待合室に戻ると、もうそこには五、六人の人が待っていた。皆、一斉に私を見るやいなや、笑いを押さえてクックッと下を向いてしまった。私もおかしくなりプーッと吹き出しそうになったが、そこはやっとの思いでこらえた。じゃないと両方の鼻の穴に詰められた綿が、豆鉄砲の丸のように人様めがけて吹っ飛ぶではないか。それでも両方の鼻の穴に大きな白い綿を詰められた自分の顔を想像するとおかしくて、しばらくは人目をはばかり、下を向き両鼻をつまんで、クックックッと笑いを押さえるのに一苦労した。ああ、苦しかったこと。

やっとまた、私の名が呼ばれ、小さな部屋に通される。また、ややしばらくそこで待つと“おにやんま先生”が現れ、やれやれ、私の鼻の穴から綿を取り出してくれた。
「じゃ、軟膏を出しますから、朝と晩二回鼻に入れて、様子を見てください。」
「あのー先生。この頃私の夫や子供達が、ママは耳が悪いんじゃないかと言うんですが、․․․これは鼻からきているんでしょうか。耳の検査も今日して頂けますか。」
「よろしいですよ。じゃ、直ぐしましょう。」

シーンと音一つしないガラス張りの小部屋に入って、検査をしてもらった。
「何か音の事故でもありましたか。左の耳の方が悪いですね。これは耳の奥深くだから手術はできませんが、まあこれ以上聞こえなくなったら補聴器が必要ですよ。」
「えっ!補聴器ですか!そんなに悪いんですか!」
実を言うと夫や子供がスイスジャーマンで話しまくると、判らない時が多々にある。
そういう時には面倒くささも手伝って、聞こえていても聞こえない振りをよくするのだ。それが高じてママは耳が悪いんじゃないかと思われているものと、高をくくっていた私だったが、補聴器が必要とは。

「見て下さい。検査の結果です。グラフのここですよ。」
「はあ。--」
「じゃ、何か日常生活に支障でもきたすようになったら、また来て下さい。」・・・
朝病院へやって来た時は、私の世界はまだ正常であった。それが今は・・・。
鼻の手術だって?補聴器だって?・・・踏んだり蹴ったりとはこのことか。なんだか私は中年マダムから、中古のポンコツになってしまった様に思えた。

普通だったら憂鬱になってしまうところだろうに、病院から一歩朝の活気に満ちた町に出たとたん、どうしたものかケラケラと笑い出してしまった。

あの“おにやんま”め、もしかしたらやたらと人を煩わす藪蚊ならぬ藪医者だったんじゃああるまいか。すっかり忘れていた植木等のあの“スーダラ節”が頭のどこからか聞こえてきた。

 
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                                   ラーツ 轟 千尋

 

「今日は私の誕生日で~す。」

スイスでは、大人も子供も誰彼問わず、自分の誕生日を知らせる習慣がある。「プレゼントを催促しているようで嫌だわねぇ。」などと勘違いしてはいけない。誕生日の子供=誕生日っ子、と呼ばれるその本人は、自分から皆に何かを振舞うので、その理由を明らかにしているに過ぎないのだ。誕生日っ子は普通、その日に学校や会社、サークルやクラブなど自分の所属する、家庭以外の場におやつを持っていく。先生や上司、友人達も心得たもので、贈り物を用意している。

幼稚園や小学校では、朝一番、授業が始まると先生が、「今日は○○ちゃんのお誕生日です。おめでとう!」などと切り出して、皆でハッピーバースデイを歌い、先生からプレゼントが渡される。それは可愛いメモ帳とかちょっと変わった鉛筆とか、ほんの小さなものだが先生がそれぞれに合った物を選んでいるのには感心する。カードも付いていて、簡単なお祝いの言葉が書かれているが、先生によって格言や諺のようなものが引用されていることもあって、その子の人生に大いに影響したりするから、なかなかである。そうして精神的な繋がりも出来るのかも知れない。誕生日のおやつは、少し長めの10時の休み時間に配られる。

中高校生になると授業中にわざわざ誕生日の話はしないようだが、休み時間に先生を交えて手作りケーキを食べたりする。学食などでコーラやコーヒーをおごる生徒もいる。この年になると親にやってもらうのが心苦しくなってくるようで、自分で前の日にケーキを焼く子も多い。特に高校生は、同年のほとんどが社会に出ている*見習い生で、給料でおやつを買って振舞っているのを知っているから尚更である。

大人は、というと家庭の手作りケーキを持参するのを誇りに思っている人が多いようだが、共働き等多忙の昨今、10時の休憩にクロワッサンやオープンサンド、ブレッツェルなどを買ってくるのが普通になってきたようだ。誰かが誕生日となると、ナニハトモアレおめでたいので、ちょっと失敗などがあっても誕生日っ子にあやかって簡単に許す傾向があるようだ。ドンマイ、ドンマイ、といったところだろうか。

ランチに出れば、「今日は特別、ワインでも・・・」ということになり、今度は同僚が勘定を受け持つ。けれどここは堅実なスイス人のこと、午後の仕事にさしつかえるから「お姉ちゃんお代わり!」などと調子に乗ることもなく、せいぜいグラス一杯くらいで乾杯する。もちろん、そういう“平日”が過ぎて帰宅したら、次のお祝いが待っている。 

幼稚園児や小学生では午後に、親が企画してパーティをするし、課外活動等にも差し入れするので、主婦はケーキをいくつ焼いても足りないくらいだ。

15、6才にもなると友人同士でイベントを企画したり、ディスコやパブなどで週末に祝ったりするが、家族とのパーティも忘れない。

そんなこんなで、スイス人の誕生日は本人が忘れたとしても周りから何らかの反応があるし、反対に周りがし~んとしていても本人がアピールするから周りも気がつく。双方とも知らん顔することはまずない。しかもこれでおしまいではない。スイス人の誕生日に対する執着は大変なものである。

普通の誕生日の他に“丸い誕生日”というのがある。
10、20、30と0(丸)の付く歳で、いつもより遠い親戚や友人に声をかけて祝う。

10才は初めての0ということで特に親の方が感慨深いようだが、20才となると大人になって初めてで(スイスでは18才が成人)、ヤングもなかなかそれを特別視しているようだ。 

30にして立ち(!)40にして惑わず・・・、社会の大車輪として活躍している歳で、いつものクロワッサンはシャンペンかワイン付きのカクテルに替わり、パーティもかなり大掛かりになる。彼方此方から声がかかるし、本人も色々企画する。

50才は半世紀ということで、何やら重大な歳と言う人が多いが、パーティの方は、その割には私の周りでは静かだった。どうも30、40才で張り切り過ぎたらしく、「あんなうるさいパーティより、家族と気楽に過ごす方がいい。」と言うのを、半世紀才になった友人をお祝いに行ったとき聞いた事がある。私の夫も30、40才では親戚家族パーティの他に友人や会社の同僚を呼んでガーデンパーティを催し、自らバーベキューをしたものだが、50才の時は親戚だけを誘ってレストランに行った。もちろん一ヶ月くらい前にメニューを選んで予約して。

60才ではそろそろリタイヤーも近く、“その後の人生”を考え出すころかもしれない。
70才になると古来稀なり、「ひょっとして、これが最後の丸い誕生日?」と考え始める(のかなぁ)。80才は、寿命が長くなったとはいえ、誰もが簡単に行き着けるゴールではない。90才は益々難しくなり、100才では新聞やラジオ、テレビなどに出て公的にも祝福される。0は二つも付いているのだ!

さて、高齢になると体力気力が衰えてきて、自らパーティを企画する気もなかなか起こらないようだが、そこは子供や親戚のヤング達が30,40代になっており、あのエネルギーの塊のような勢いで、頼みもしないのに勝手に企画実行してしまうことがしょっちゅうだ。そういうパーティに招待されたこともある。“誕生日っ子”は70才の近所のおじいさん、企画者はその“子供達”である。この歳になると自分の家族は子供の結婚出産でヤング層が増えているが、反面、同年代の友人は減っているという現実。それで私たちにも声がかかったのか、当日はおじいさんの庭でのパーティで、大変な賑わいようだった。けれども誕生日の本人は、家に帰って来たとたん大合唱に祝福され、驚くやら嬉しいやら・・・。皆大満足である。というのも、その日は巧みな理由を作って、企画チームの一人が朝早くからおじいさんを連れ出していたし、招待された私たちは口止めされていて、道で出会ってもパーティのことはおくびにも出さなかったのだ。

ところで、日本にも草体の文字から喜寿77才や米寿88才があって、特に長寿を祝うが、スイスでは、44才、55才、66才など同じ数字が重なる時は“シュナップス誕生日”と呼ぶ。シュナップスは焼酎のように強い蒸留酒で、すぐ酔っぱらい感覚になり、目に写るものすべてが二重に見えてくるということから名付けられたらしい。

それにしてもなぜスイス人はこうも誕生日を重要視するのだろう?パーティが好きだから?それとももっと深いところに生誕に対する強い思いがあるのだろうか?

私がハッとしたのは、国民行事のことである。日本人がお正月とお盆を一年の二大行事とするなら、スイス人にとってはクリスマスとイースターである。日本の、新年と亡人のお祭りに対して、スイスの二大祝賀はいずれもこの世に湧き出る生命、つまり誕生と復活を祝うのである。これがシンボルとなってスイス人は身近な個人の誕生日を大切にするのではないか、そんな気がしている。



*見習い生や*課外活動のことは、ライフスタイル研究会編『スイスからのメッセージ』に詳しく出ています。
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                                                         ケーネル・西岡 寛子



「…残念ながらスイスにはありませんけれど、日本には《生け花》と言う伝統的な芸術がありますね。結婚生活とは、このテーブルの上に飾られている花束に例えることが出来ると思います。この花束は目も鮮やかなブルーの花を中心に、淡いピンクの花、白く可憐で小さな花、そしてこれらの花々を絵の額のように縁取っているさまざまな木やシダの葉からなっています。一つ一つそれぞれに美しい花ですが、いろいろな花が混ざり合い、まとめられ、一つ一つの花のときには見られない、調和の取れた花の世界が再現・創作されています。今から貴方達お二人が歩まれる道も、このブーケのように調和の取れたものになりますよう、共にいたわり励ましあいながら歩んで行かれることを願っております。」

ある若いカップルの結婚式の通訳を引き受けた時、ベルン市の戸籍役場で係員の方のスピーチを通訳しながら私自身の結婚式もこのように簡素なものだったことを思い出していた。また同時に、このお二人のように私の時は『通訳が必要とされなかった』ことを思い出し、ここ30年間ぐらいに随分と変わってきていることに気付かされた。とにかく昨年は3回も結婚式の通訳を頼まれた。結婚すると決めた二人が必要な書類を戸籍役場に持って行き、手続きをする際も今や通訳が必要であり、教会での結婚式、またいわゆる披露宴での通訳を含めると3度の通訳となってしまう。教会でのお式の後の軽食時や披露宴の時には出席者の間をぬって意思疎通のための通訳となる。披露宴も後半になると社交ダンスが始まるが、一度、花婿のおじい様が私の所にこられ「今日のお礼と感謝の気持ちを込めて、先ずはあなたに申し込みたいのですが、お手をどうぞ。」と誘われた時はとても嬉しく、このような感謝の表現もあるのだと感動したことがある。その一言で全てが報われたと思った。

最近は日本語を学ぶ若い人が増えてきており、結婚式の通訳の依頼はたいていの場合が教え子からのものであり、ついつい引き受けてしまうことになる。一度は戸籍役場での結婚式の時、お式の10分前に係りの方から「詩を読みたいので、宜しくお願いします。」とばかりA4に書かれた詩を手渡されたことがある。詩は好きな方で結構嗜んでいるものの、その時は「詩、ですって、冗談じゃないわ。 詩など簡単に訳せないわよ!せめて前日にでも、、、」などとブツブツ言いながらもなんとか訳し終えたこともある。戸籍役所での結婚式は簡易なものなので、係員が替わるぐらいで月並みなスピーチに違いないとたかをくくると大違いで、皆さんそれぞれに個性的で素晴らしいお式になるよう用意周到に準備なさり、格調高く厳かなものになる。前もって原稿を下さればいいのだが、たいていはぶっつけ本番になる。

なぜ昨今通訳が必要になっているのかというと、どうやら国際結婚なるものを、言葉がわからないうちにどさくさに紛れてやってしまう青年がいるらしく、その後で女性が気付き、「え、私、結婚してしまったの?ご冗談もいい加減にして下さい。離婚させて頂きます。」と言っても後の祭り。ま、これは冗談でしょうけれど、あまり言葉の分らない奥さんをご所望の方もいると実際にどなたからか聞き及んだこともあるので、信憑性が無いとはいえないから怖い。その理由は、≪女は賢くない方が良く、言葉もあまり分らないほうが扱いやすい≫ というフェミストが聞けば吊り上げられそうな時代錯誤も甚だしいものだったが、一旦結婚してしまえば、離婚するのはそう容易ではない。離婚裁判所の方に弁護士を通して離婚の訴訟・申請をしなければならず、それ以前に様々なケースを念頭に於いて、出来る限りの手を打たなければならない。ケースバイケースで、結婚を続けたいと思っている側の話を聞いてくれる役所の窓口も用意されている。今や三組に一組が一年未満に離婚し、(ひょっとすると既に二組のうち一組になっているのかもしれないが)とにかく離婚率は高い。ましてや子連れ離婚となると当事者だけでなく役所の方にも負担がかかることになりかねないので、まだ望みのある場合はお助けしましょうと、カウンセリング等を通して救済の手を差し伸べている。

若い二人は夢を膨らませて結婚する。でも、確かに結婚生活は役場の係員の方が示唆なさるように、冒険で一杯でもある。雨の日もあれば、台風の日もある。晴天の日があれば、曇り日もある。おまけに国際結婚には言葉の壁もある。言葉だけならそれほどでもない、勉強すればよいのだから。でも、習慣・宗教・伝統といった様々な違いの狭間で暮すのは面白い反面、理解し難いこともあったりするので大変でもあるし、お互いを分かり合うための努力が必要だし、忍耐力も問われる。

そんなことを少しでも分かって結婚してもらうための通訳なのかもしれない。

何はともあれ、お式の時にはいつも決まって、縁があって結ばれるお二人が世界で一つだけしかないお二人だけの織物を丹念かつ色鮮やかに織りこまれるように願う。

 
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