カテゴリ:スイスからのメッセージ( 1 )

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1999年9月初版発行、2002年12月新装版発行 

 


海外生活、国際結婚、これからも国際化がどんどん進み、
皆が渡り鳥のようになって行く。 
何処にいようと、皆それぞれ 自分の中から、
輝き出す努力をしている。
スイスドイツ語圏に長年暮らす日本人女性10人の暮らし、
生き方を見つめるエッセイ集


 
目次から

憧れ、やっぱり私は日本人、スイス徒然草、二つの文化の狭間で、愛の力、スイスの職業教育、子供達の学校、ライン川をさかのぼって、アルプスで学んだハーブ療法、チューリッヒのサウナは混浴がお好き、スイス老後事情、私達の孤独、スイスからの手紙


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立ち読みコーナー

1.『やっぱり私は日本人?』

2.スイスの職業教育

3.二つの文化の狭間で


 

1.『やっぱり私は日本人?』

ブルンネル淑美

私の街、ブリック

  今日も朝からカラーッと晴れ上がったすばらしい天気。真っ青な空に雪化粧をした山々が朝陽を浴びて輝いている。今日もと言ったのには根拠がある。私の住んでいるここスイス南部のブリック近辺は、スイス一降雨量の少ない所。一年365日の内の300日が天気だというのが、ツーリズム関係者の宣伝文句であるが、チューリッヒやベルンのように、朝から霧に包まれるということは滅多にない好天に恵まれた所である。

 〔Brig〕はよく日本語の案内書にブリークと書かれている。スイス人も地元民以外はそう呼ぶから、決して間違いではないのだが、地元ではブリックと詰まった音の発音をする。地元民の一人のつもりでいる私はそこであえてブリックと書く。そのブリックに住んで23年、『他にどこにも行きたくない私の大好きな町』と言えるようになったのは10年位のことだろうか。  

 それまでは、チューリッヒとかベルンとかの大きな町に引っ越したいと常に思っていた。最初にホームシックにかかった時も、大都市に住んでいたらこんなにも落ち込まないのに、と信じていた。多くの日本人がいて、話もできるし、日本の大企業もあって、私にもできる仕事もあると信じて疑わなかった。日本の大都市で育った私には、ここはあまりにも田舎すぎて面白くない所だった。日本の友人は『スイスに住んでいていいわねえ、羨ましい』と手紙を書いてきた。何が羨ましいのだろう。私の生活は日本の主婦と同じ、掃除、洗濯、料理の繰り返し。心から話し合える気の合った友達もいない、単純な毎日なのに!ろうけつ染めや陶芸教室に通っても、心からの満足感はなかった。

 ある日夫が『今日は何をして過ごしたの?』と単純な質問をした。その時の自分の答えは、今でも忘れられない。

 『こんな所に住んでいて、いったい何ができるというのよ! 掃除して料理して昼寝してあなたの帰りを待っていたわよ。』

 たまっていたうっぷんをはらすように泣き叫んだのである。妊娠中で不安定だったこともあったのだが、全くのヒステリーだった。日本に限らずスイスにも3食昼寝付きの生活に満足している主婦も多い。平凡で幸せな毎日に文句を言うべきではないのかもしれない。でもこれは性分なのだろう。私はもっと何かしたかった。その何かは私にとっては仕事だと信じていた。何か社会の中で仕事をしていないと生きている気がしない。そして私のできる生き甲斐のある仕事は大都市でないと見つからないと思いこんでいた。

 ブリック生まれでブリック育ちの夫は、ここが至って住み心地良いらしく、引っ越しには首を縦にふらなかった。
 
 ところが、である。《住めば都》という言葉通り、10年程前からブリックの良い所ばかりが目に見えてきた。以前はいやだったことが、今では全て長所に見える。この町出身の人なら皆、知り合いだ。あの人は誰々の息子の嫁で、その嫁の出身地はどこで、親の商売は何でと、よそ者の私には聞いていても面白くもなかったのに、今、私も同じような話題に好んで参加している。楽しく輪になってダンスをしている人々を側でつまらなさそうに傍観していたのが、輪の中に引き入れてもらって手をつないで一緒に踊っているような気持だ。眺めているだけではつまらないフォークダンスも、一緒に踊っていると結構面白いものだ。
 
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2.スイスの職業教育

ガナリン裕見子(佐藤)



私達が結婚したのは今から二十年以上も前で、その当時は日本が高度経済成長の波に乗って十年余り経ち、今ほどではないにしても生活の豊かさが日本国民全般に行き渡ってきた頃である。

縁あってスイス人と結婚したのだが、結婚する前の私のスイスに対するイメージは、自然の美しいアルプスの国であり、チーズやチョコレートが有名なように農酪業を主産業とする国かと思っていた。世間知らずと笑われるかも知れないが、私は、スイスに住むとなった時、アルプスの山小屋に住み、朝になると村のおじいさんが、絞りたてのミルクを牛車に載せて届けてくれるような生活を本気で思い描いていたのである。スイスに来てみると、一般の人はそのような生活をしていないことがすぐにわかったが。

結婚後すぐ私達は、夫の仕事の都合で、イギリスそして南米のブラジルで五年間を過ごし、その後スイスに落ち着くことになった。最初は、夫の会社の本社のある、ザンクト・ガレン州の小さな町に住んだのだが、アルプスの山小屋どころか、モダンなアパート(日本でいうマンション)生活が始まった。

スイスに住むようになり、スイスが酪農国ではなく工業国であり、その当時でさえ酪農業就業人口は全国民の五%(現在では三%に激減)のみであり、主要産業は機械工業、銀行・保険などのサービス業、化学薬品・食品業という第二、第三産業であるのを知ったのは驚きであった。

またスイス人の勤勉さもすぐに目に付いた。夫は会社まで歩いて五分のところに住んでいるのに、朝七時十五分には出勤して行った。私達のアパートから町の郵便局が真下に見えたのだが、朝七時には明かりがつき、どうやら働いている様子である。スイスでは、請求書のほとんどは郵便局を通して払い込む仕組みになっていて、私も月末に窓口に並んでみると、局員が受領証冊子にスタンプを押してくれるのだが、それがペタペタと押すのではなく、機関銃のようにダダダダッと押すので、スイス人の仕事早さに圧倒されてしまった。

その後長くスイスに住み、この土地の言葉(ドイツ語)を覚え、スイスの国情を徐々に理解してくると、この七百万人に満たない小国が主要産業では世界でも有数な地位を占めていることがわかってきた。これは考えてみると大変なことである。これほどの小国が、アメリカ、日本、ドイツ、その他のヨーロッパ主要国と肩を並べるほどの大企業を有していることは並大抵のことではない。大銀行のUBSとSBCが合併してUBSとなり、この巨大銀行は世界一位か二位となった。薬品会社のサンドスとチバ・ガイギが合併してできたノバルティスは世界一位であり、ロッシュは世界八位、食品会社のネッスルも世界一位、その他保険会社も世界第十位の中に入っている。機械産業ではABBやスルツァーなどをはじめとする世界でも有名な企業が多い。しかしながらスイス産業の強さはこのような大企業にだけあるのではなく、スイス各地に散らばる無数の中小企業に負うところが大きい。

小国のスイスが昔から内需に期待できず、輸出に目を向けなければならなかったのは当然としても、なぜこれほどの優秀企業を出すようになったのであろうか。

それは、スイスが辿って来た歴史的、地理的要因が大きな影響を与えているのは言うまでもないが、スイス人一人一人が、外国が羨ましがるほどの専門的な職業訓練を受けており、その高度な技術とノウハウによって、仕事の水準が圧倒的に高いことにも起因するのではないだろうか。

確かにスイス製と言えば、イコール高品質と言われている。私自身は結婚前は知る由もなかった事だが、スイスに住んでいるとスイス国民の誇りがじわじわと伝わってくる。

例えばスイスの機械工業と言えば、生産のほとんどは輸出向けであるが、まず高品質の機械で知られている。機械は高いのだが高性能であり、この機械を使って製造した製品も高品質なものとなるため、世界中に顧客を持っている。高品質なのは機械だけではない。生活の身近にある家具、家庭電気製品、台所用品、寝具、衣類、靴、貴金属などを見渡しても、スイス製であれば、値段は高いが品質は保証できる。これらの企業で働くスイス人は、大会社であれ中小企業であれ、皆それぞれの職業分野で優秀な技術を身に付けたプロである。

人口七百万人弱の小国で、労働人口も少ないスイスでは、労働者一人一人が、その人の能力を目いっぱいに使わなければ、他国に対抗できない。それを悟ったスイスが百年程前に、国を挙げて現在の職業訓練制度を導入したのである。スイスの実用主義、効率主義が、この制度に明確に表われている。

私は、スイスに住むようになって間もなく、チューリッヒにある日系金融機関で少しの間働いたことがある。そこでは、スイス人と日本人が一緒に働いているわけだが、商業事務職の職業訓練を受けて来たスイス人女性社員と日本人女性社員の仕事の差は一目瞭然であった。簡単なように思われる事務職でも、専門的に訓練された場合と、何も習っていないのとでは、処理能力に格段の差がつく。その時初めて私はスイスの職業訓練というものに関心を持った。それでそのことについて書いてみたいと思う。
 



3.二つの文化の狭間で

デューラー 美和

今日は素晴らしい天気 - 息子の死

「嘘だ、これは全部夢なんだ」 何度も何度もつぶやいている私。
息子の遺体の前でそう言いながら、「ああ、この子はもう行ってしまった」という妙
な現実感が交錯しています。まだ温かい息子の足をさすりながら、「これは何だろう。
どういう意味があるんだろう。ちょっと考える時間がほしい」と、頭の中はぐるぐる
とまわっています。ふと顔を上げると空が真っ青です。「今日はすばらしい天気だわ」
と思います。

周りからスイスドイツ語が聞こえてきます。誰かが英語で「ご主人は会社にいるん
でしょ、電話はどこ?」と聞きます。立ち上がるけれど、私の身体が動きません。歩
き方を忘れたような感じです。そこにいた人が私を抱えるようにして家に入ります。

家に入ってしまうと、今、外で起きたことが一瞬現実に変わります。「私の大切な息
子、ブレーキ、車、血、青空、友達、太陽、自転車」。 周辺の一つ一つがぽつんぽつ
んとつながって今、外で見てきた出来事が私の中で「あの子が死んだ、死んだんだ」と
呼びかけています。そうかと 思うと「違う、これは幻なんだから」と別の意識が訴え
ます。呆然としているところに警察の人や事故を起こした関係者の人などが次々とや
ってきますが、何がなんだかわかりません。私はただそこに立っているだけなのです。
感情が一時ストップした感じです。 

そして主人がかえってきました。それが主人だとわかったのは家の門のあたりで主
人の悲鳴のような声がしたからでした。「あっ、主人だ」と思った途端に、私の中では
感情が怒涛のように流れだし、初めてどっと涙が出てきました。

 あれから6年という歳月が過ぎ、息子との記憶は行ったり来たりします。
楽しかったこと、つらかったこと、一緒に笑ったこと、泣いたこと、いろいろな出来
事がありました。たった6年半の人生でしたが、ぎっしりと詰まった思い出が、私の
中では繰り返し繰り返しよみがえります。その繰り返しによって、まるで砂の中から
風によって次第に姿を現す貝殻のように、彼の人生の断片が、次第にその意味をあら
わにしてきました。同時に、私の犯していた過ちも、時間とともに姿を現してきまし
た。それは二つの文化の狭間で起こりました。

 記憶を掘り起こすことは時にはつらいことです。でも、私が私として今後も生きて
ゆくためには、なぜあの時、あのように考え、悩み、苦しんだのかということを自分
なりにまとめておかなければ、そしてその苦しかったことを人生の知恵に変えてゆか
なければ、という心の呼び声が聞こえてきます。人間の記憶は明らかに時間と共に風
化します。今だからこそまとめられるということもあり、私の反省も込めて、書き綴
ってみようと思います。 

子育てで気づく夫婦間の文化の違い 

 私たちは東京で知り合い、結婚しました。国際結婚だからといって、格別に夫婦の
ありようが異なるわけではありません。銀行の駐在員として東京に派遣されていた主
人とごく普通のように出会い、普通に結婚し、普通に将来の夢を共有しようとしてい
ました。何か違っているとしたら、夫がスイス人であること、そして私のほうが年上
ということぐらいでしょう。2年後に待ち望んでいた息子が生まれました。
 



 
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