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会員のエッセイ  第七回 フランス語圏とドイツ語圏の境に住んで


                                        ドレンハウス信子

スイスのいわゆる「ローシュティグラーベン(ローシュティの堀 ※)」の真上に位置するフリブール市(フリブール州の州都)に隣接する町(フランス語側)に私たち一家は住んでいます。フリブール市は、大きく蛇行した川に囲まれた高台に12世紀に築かれた街です。大まかに言ってその北東側はドイツ語圏、南西側はフランス語圏です。町も州も大体人口の3割はドイツ語が母語、7割はフランス語が母語です。

※:フランス語圏とドイツ語圏の境のことをスイス人はこう呼びます。ドイツ語圏のジャガイモ料理ローシュティがフランス語圏では知られていなかったからです

スイスという多言語の国で、その言葉の境ではどうなっているのだろうと日本人旅行者に聞かれたことがあります。日本のような言語環境の国の人から見ると複雑な環境に見えることでしょう。私達はこの境にもう20年住んでいますが、家族内ではドイツ語を使っているので私のフランス語は買い物ができる程度です。それでもそれほど不自由と思わないのはこの街ではドイツ語で曲りなりにも用事が足りるからです。

家族でドイツからここへ移ってきたとき、私はもう40代も間近、ドイツで15年過ごした後でした。この街はフランス語が優勢ですが、お役所でもデパートでもドイツ語を話す人が対応してくれるまで待つ時間さえあればでドイツ語だけでなんとか生活していけます。同じ学校内にドイツ語と、フランス語でクラスがあるところもありますし、もう1つの言葉の学校へ通えるように町が援助してスクールバスを出しているところまであって、子供達はそれぞれ母語の学校へ行けます。フランス語を話す家庭がわざわざ子供をドイツ語のクラスに入れることもありますし、その逆もあります。私のところの下の二人は家の目の前にフランス語の幼稚園があったので幼稚園はフランス語で過ごしました。

 ドイツ語を使うお隣さんで家族パーティを開催したときは子供も入れると30人くらい集まりました。ご主人の兄弟が中心でしたが、弟さんはフランス語を話す人と結婚していて、フランス語圏の真ん中に住んでいます。その12歳を頭にした3人の子供たちはフランス語しか話しません。彼の奥さんも、義理のご両親もフランス語だけです。ご主人のお姉さんの1人もフランス語圏に住んでいますから、私に向かってまずフランス語で話しかけてきます。このパーティではこっちの会話はフランス語、あっちの会話はドイツ語、ゲームをしている子供たちはフランス語だけの子供たちに合わせてみんなフランス語。私との会話はドイツ語でといった調子です。誰も当たり前という顔で会話をしています。

この街では、フランス語とスイスドイツ語と標準ドイツ語、それに時々英語が入り混じった会話はちっとも珍しいことではありません。主人の勤め先の大学の研究室の会議はそれぞれが自分の言葉で話すそうです。バスの乗客の会話もいろいろな言葉で交わされていますし、乗ってきた知人に向かって言葉を切り替えたりすることがごく自然で、会話の言葉が突然変わっても誰も振り向きません。

フリブール大学ではどうでしょうか。神学部、人文学系(法律、経済、教育、社会、語学、スポーツ)理科系(物理、化学、数学、地理、生物、医学部の基礎科目を含む)のある総合大学です。スイスでは各州に大学があるわけではありませんから、学生はスイスの各地方からやってきます。

人文学系の学科の多くはフランス語だけ、またはドイツ語だけで勉強ができます。それぞれの言葉で学士、修士コースを取ることができます。もちろん、専門用語や表現をもう1つの言葉で勉強する講義も提供されています。ところが理科系は言葉別ではありません。講義は講義をする人の母語で行われ、実習の指導も指導者が話す言葉になります。グループによってフランス語だったり、ドイツ語だったりするけれど、学生はお互いに助け合っていると主人は言います。

聴講生になって生物の講義を聞いてみようと思ったので、新学年度の1時間目に出かけていきました。生物の1年生の講義は、医学、薬学、生物、生化学の学生の必修科目ですから200人以上が入る講堂での講義でした。女性の講師が教壇に立って、話し始めました。まずは「この中でドイツ語だけ分かる人」30人くらい手を上げます。「フランス語だけ分かる人」やはり20人くらいです。「両方分かる人」3分の2くらいが手を上げます。所属学科別に学年末の試験のやり方、範囲をフランス語で説明して、この講義の資料サイトのアドレスを教えてくれます。講義では教科書(英語の)を最初から決まった範囲づつ扱っていくと言うことでした。

講義が始まり、スクリーンに映った項目(フランス語)についてフランス語で説明していきます。次の画面に移る前にドイツ語で項目が映し出されますが1、2秒ですぐ次のフランス語のものに変わります。ドイツ語だけ分かると言った人が何人か私の後ろに座っていたのですが、小さく「あぁーー」という声が聞こえます。3度目のときにドイツ語の学生が手を挙げました。「あの、ドイツ語の画面をもう少し長く出していただけませんか」、「ドイツ語の画面を長く出しておくと、時間ばかりかかって先へ進めません。同じものが私のサイトへ行けば見られますのでそっちで見てください(ドイツ語での返事)」。またさっさと講義を続けます。2時間続きの真ん中の休憩時間に講堂を後にしたのは私だけではありませんでした。後で主人に講義担当者の日程を見せると、この人はフランス語、この人はドイツ語で講義すると思うと教えてくれました。講義を、時にはフランス語、時にはドイツ語で聞いて、教科書は英語で勉強したら、専門用語を一度に3ヶ国語で覚えられるので能率的だとは思ったのですが、聴講はあきらめました。

では細かい話がしたいときに相手がフランス語かドイツ語しか話さないときはどうなるのでしょう。

勧誘や商品紹介の電話がかかってきますが、一応フランス語圏と見られているところに住んでいますからフランス語です。向こうがフランス語でぺらぺらと話すうちのいくつかを聞き取れるだけですが勧誘の電話だと思うと、向こうが話している途中でも構わずに、「ドイツ語、話せますか」とドイツ語で聞き返します。そのまま切ってしまう人もいますし、「さようなら」とか、ドイツ語で「ドイツ語できませんので、さようなら」といって切る人もいます。楽しかったのは「あっ、私はドイツ語できません。何語ができますか」と聞いてきたので、「ドイツ語と日本語と、あとは英語がほんの僅か」と答えたら「私も英語は一寸だけできるけどー。これじゃだめですね。さようなら」。勧誘の電話だと思うと、フランス語も話す主人も標準ドイツ語で「ドイツ語、話せますか」とやります。効果覿面です。ここのドイツ語圏の人はフランス語もそつなくこなすのですが、フランス語圏の人はドイツ語が苦手です。

アパートの管理人と改装の話をしたときのことです。向こうはフランス語、こちらはドイツ語。主人は旅行中で、いろいろなことを今決めないと職人さんが困るということで私が対応しました。お互いの言葉ではほとんど通じません。管理人に「英語は話せますか。英語のほうがフランス語より分かりますが」と聞いて、それからは英語で改装の説明を聞き、タイルの色決めをしました。

家の台所の改装をしたときに監督をした人は両方できましたが、作りつけた大工さんはフランス語だけなので二人でフランス語を話していました。そこへ花崗岩の作業台の寸法を取りに来たのはここから15kmくらいドイツ語圏へ入ったところにある会社の人でした。少しどいてもらえば作業がしやすいところでも、「ちょっとすみません」も言わずに黙々と寸法を測って私に向かって「じゃ」といって帰って行きました。ドイツ語圏の方へ向かって少し入ってしまうと日常でフランス語を使う機会がほとんどなくなってしまうのです。

住所がフランス語圏なので家電もフランス語圏のサービスセンターの管轄になります。洗濯機が壊れたときに来たサービスマンもフランス語だけです。壊れたところを見つけて私に説明してくれるのですがよく分かりません。彼が携帯で本社へ電話してドイツ語の分かる人に説明して、私はその人から説明を聞いたこともありますし、私が娘の勤め先へ電話して娘に電話通訳をしてもらったことも有ります。街の電力会社に用事で電話したら、「ドイツ語の分かる人が今一寸いません。一寸待ってください(片言のドイツ語)」と言われてしばらく待たされてからドイツ語が聞こえてきました。本社ではどうしようもなくて、ドイツ語圏内にある支店に切り替えて、そこへ繋いだことが分かりました。用事を説明したら、「本社の方へ伝えておきます」と言ってくれました。時間はかかりますが何とかなるものです。こちらがどうしても分かって欲しいことで、向こうがフランス語だけと分かっているときは子供の誰かに連絡や説明を頼みます。

 お隣さんも、二軒長屋の隣はフランス語を話すベトナム系、その向こうはフランス語が母語、その隣はドイツ語が母語、その先はドイツ人夫婦、と言うのがどこでもごく普通で、顔を見ればそれぞれの言葉で挨拶くらいはします。

ここでは日常生活で2つの言葉を操り、下手も上手も気にしない世界が広がっています。