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会員のエッセイ   第四回  出産の思い出

                       ガナリン裕見子



時の経つのは何と早いことだろう。娘はもう23歳、息子も17歳になったが、今でも鮮やかに覚えている出産について書いてみよう。


娘の出産


私たちが結婚した時、日本の叔母が「外国で生活するのだから、早く子供を生んで自分の身内を作りなさい。」と言ってくれた。イギリスで新婚生活を始め、その後ブラジルへ移り3年ほど暮らしたが、二人だけの自由な生活が楽しく子供が欲しいとは思わなかった。そしてスイスに帰国してまもなく妊娠した。当時勤めていたが、つわりもきつくなく順調だったので、7ヶ月目で退職した。

外国での初めてのお産で少し不安もあったが、子供が生まれるという喜びの方が大きかった。私より日本の母のほうが心配していたようである。ブラジルでドイツ語の基礎を学び、スイスでの生活でも日常会話ぐらいは困らなかった。しかし分娩時に言葉が通じなくては不安なので、妊娠・出産についてわかりやすく書かれたドイツ語の本を買い求め、何度も読んでドイツ語の語彙を覚えた。出産のための体操に通い、特に分娩時の呼吸法が役に立つと思い練習をした。しかし実際役に立ったかどうかはわからない。また育児講座に夫と二人で出席したが、ドイツ語とはかなり異なるスイスドイツ語であったため、ほとんど聞き取れなかった。それでも赤ん坊の人形を使ってオムツの仕方やお風呂の入れ方などを教えてもらったのは役に立った。

出産が近づいた頃、母から手紙をもらった。「お産は女の闘いだからね、しっかりやりなさい。」と書かれてあり、何となく気持ちが引き締まった。予定日の数日前に軽い陣痛があり、私も夫も「さあー、始まった。」と急いで病院へ駆けつけたが、病院のベットに横たわっている間に、陣痛はおさまってしまい、間違い警報であると家に戻された。一晩おいて次の日の夜また陣痛が起こり、今度は本当だという直感があったが、夫はまた間違い警報だろうと相手にしてくれない。最初のときに、お産にならなかったことを会社に報告し、格好がつかなかったらしく、絶対確実でないと病院には行かないと決心していたらしい。それで、今度は本当だと保証するとやっと腰を上げてくれ、陣痛がかなり進んでから入院した。入院時には男の子と女の子、両方の名前を書類に書き入れて持参することになっている。

病院ではすぐに分娩室に入り、若い助産婦さんと年配の看護婦さんの二人が付き添ってくれた。分娩が近づくとかかりつけの医者(当時病院の産婦人科部長も兼任)のニック先生が電話で呼ばれ、立ち会ってくれた。幸いお産は早く進んで、それほどの苦しみもなく、夜中の1時半に娘が生まれた。先生はもとより、助産婦さんも看護婦さんもとても親切で、信頼してお任せすることができた。お産が終わり、先生も帰られたころ、看護婦さんが、「ガナリンさん、とてもよくやりましたね。」と褒めてくれとても嬉しかった。

結婚直後私は健康保険のプライベートに加入していて、病室は個室だった(スイスの健康保険には、プライベート、半プライベート、一般と3レベルあり、掛け金に相応して待遇に差がある)。一般病棟の産婦の赤ん坊が赤ちゃん専用の部屋で寝かされていたのに対し、個室の産婦は赤ん坊を昼の間同室することができた。娘のベビーベットには、娘の名前と看護婦さんが描いてくれた可愛い蝶々の絵がついたカードが掛けてあった。日本の赤ちゃんだと産着を着ているが、スイスでは生まれたばかりの赤ちゃんにもちゃんとしたベビー服を着せる。

個室の産婦には、一般病棟とは違った特典があり、例えば毎日看護婦さんが部屋に来て、産後の体操をするよう指示してくれ、ベットの上で20分くらい体操をした。また、病院の図書室からですと言って、押し車に本や雑誌を詰めて病室に訪れ、「読みたい本はありませんか?」と尋ねられた。日本だと産後に目を使うと視力が落ちるといわれ、本などは読まないよう言われているのに随分違うなあーと思ったものである。私はもちろん何も借りなかった。

出産した日から二晩目の夜、自分はこの子を無事育てられるのだろうかという、とてつもない責任感で胸が押しつぶされるような気がして、部屋には誰もいないことを幸いに、夜中にベットの上でワーワー泣いてしまった。子供が生まれて嬉しいはずなのに、どうしてこんなに悲しいのか不思議であった。夜中に泣いたことは夫にも誰にも話さなかった。昼間は悲しくなかったし、自分がおかしいと思われるかもしれないと思ったからである。

ブラジルから帰ってきて間もなく、勤めていて近所付き合いもしていなかったため、スイス人の知り合いもいなかった。それで私が入院している間訪ねてくれたのは、夫と夫の家族、夫の会社の同僚や奥さん達だけであった。その婦人達はベビー服やおもちゃ、花などをプレゼントしてくれた。夫の家族からは、生まれた娘に金のネックレスや宝石のついたペンダント、そして服をプレゼントされた。日本からは、出産祝いのお金や3年分ほどのベビー服が何箱か送られてきた。

ほかの病室のスイス人女性達は分娩後すぐにシャワーを浴びていたが、私は炎症を起こしたらと怖くて数日はシャワー室にも入らなかった。入院中のある日、母子相談所の看護婦さんが訪ねてくれ、「ガナリンサン、コンニチハ、ワタシハ、ニホンゴガ、ハナセマセン。」と片言の日本語で自己紹介してくれた。それまで私の住む地に日本人はいなかったため、私はそのハニー看護婦にとても親しみを感じた。彼女のお姉さんが、牧師である夫と共に日本に滞在しているということであった。

産後の経過も順調で、一週間後に退院した。娘のときの看護婦さんたちは皆とても感じのいい方達ばかりだった。退院の日には、看護婦さんたちにケーキの差し入れをし、夫は「またお願いします。」と挨拶した。

日本では出産後の婦人はとても大事にされ、実家に帰って二、三週間ゆっくりできるのが普通である。スイスではそういう習慣はないようで、家に帰ればすぐに家事が待っている。我が家では夫が一週間休暇を取ってくれ、いろいろ手伝ってくれたが、私自身もかなり動かなければならなかった。その後まもなくクリスマス休暇に入ったので、夫の実家に帰り、そこで10日間くらいゆっくりさせてもらった。産後の体を回復させるにはできるだけ休養をとるのがいいと私は思っていたのだが、スイス人の女性は退院してすぐに買い物に出たり、重い乳母車を押して外出する。欧米の女性とアジアの女性の体力の違いをつくづく感じたものである。

退院してまもなく、母子相談所のハニー看護婦が家に訪ねてきてくれ、娘の運動神経が正常かなどの検査をしたり、いろいろアドバイスをしてくれとても心強かった。家庭訪問はよほどのことがない限りこの一回きりだが、何か質問があれば、電話での育児相談を週に3回受け付けている。一度娘が1週間もうんちをせず、さすがに心配になって電話で相談すると、母乳はとても消化がいいので大丈夫という返事だった。

又、退院して一ヶ月くらいすると、『両親への手紙』という3ページくらいの小冊子が届いた。読んでみると生後一ヶ月の娘の成長にぴったり合った内容が書いてあり、読みながら、「確かにこうだわ、娘にもこういうことがあるわ。」と我が子の成長が順調なことがわかりとても安心した。また第一号にはホルモンの変化による出産後の産婦の気分の変化(マタニティブルー)について書かれてあり、「ああ、これが私が病院の個室で訳もなく泣けてしまった理由なんだ。」と合点し、異常でないことがわかり安心した。

この小冊子は一ヶ月くらいの間隔をおいて届き、その時期の赤ん坊の心身の成長について詳しく描写されていて、私は次の号が来るのを楽しみに待っていたものである。スイスでも核家族で親の援助を受けられない若い母親が育児でとまどうことがないようにという配慮かららしい。優しい文章で、詩やイラストなども載っていて、読んでいてとてもほほえましい冊子であった。また4ヶ月目頃からは、離乳食についてとか、子供の遊ばせ方、自分の時間を作るにはどうしたらよいかなどのアドバイスも書いてあった。

ハニー看護婦が週に一回育児相談を行い、1歳以下の赤ちゃんを持った母親が定期的に出向いて、身長・体重の測定と簡単な検査、そして健康や離乳食などに関するアドバイスをしてもらえた。私は病院で知り合ったスイス人女性といつも一緒に通った。私の娘と彼女の赤ちゃんは同じ日に生まれたので、お互いの赤ちゃんの成長を比べておしゃべりするのは楽しいものであった。娘が1歳を迎えると、育児相談はなくなり、『両親への手紙』も終った。最近出産した知人の話だと、この小冊子は今はないそうで残念に思う。娘はその後も順調に育ち、夜泣きもしなければこれといった病気もせず、両親にとってはとても楽な子供であった。



息子の出産



息子のときはまったく違った出産や育児を経験することになった。よく男の子は手がかかると言う話を聞くが、生まれる前から大変だとは思わなかった。

二度目の妊娠当時も勤めていたが、つわりがとてもきつくすぐに退職させてもらった。食欲はまったくなく、7ヶ月に入ってようやく普通に食べられるようになった。5ヶ月の検診で体重が妊娠前より減っていて心配したが、胎児は成長に必要な栄養は母体から取っているので心配ないといわれ安心した。今回も妊娠体操に通い、今度こそ効果が出るようにと呼吸法も練習した。高年出産だったため心配していたのだが、「痛みがきつい場合には薬で和らげられます。」という病院側の説明を聞いて、内心それに期待していた。お腹が目立ってきた頃、夫が娘に「弟と猫とどっちが欲しい?」と聞いたところ、娘は即座に「猫」と答えたそうだ。その話を思い出すと今でも皆で笑ってしまう。

予定日ちょうどに陣痛が始まり、ぎりぎりまで家で我慢してから入院した。夜の7時半であった。一度目の時にお世話になった先生はもういらっしゃらなく、新しい産婦人科の部長が入ってきた。実は私のかかりつけの産婦人科医はこの先生と合わず、病院での立会いはしてくれていなかった。やはり知らない先生だと不安になるものである。陣痛が相当進んでいたので、私はまもなく生まれるのではないかと予想した。ところが先生は私を診察すると、傍らにいた夫に向って、時計を見て笑いながら、「今夜中に生まれてくれるといいですね。」と言ったのである。それを聞いた私はこの痛みが今夜中続くのかと思い、その途端体中の筋肉が硬直して余計に痛みを感じるようであった。その先生はギリシャ系だそうだが、ギリシャでは男尊女卑なのだろうか。医者なのに苦しんでいる産婦に対する思いやりがないと思い、その先生への信頼感はあっという間に薄れてしまった。先生に頼れないとなると傍らの夫だけが頼りだった。夫が私の背中や脚をマッサージしてくれ、とても楽に感じられた。陣痛が来ると、夫の手をしっかり握って耐えた。痛みがかなり強くなってきたので、助産婦さんに、薬がもらえないかどうか聞いてみた。彼女は「そうですね。」と言ったがくれる様子がない。しばらくして夫に聞いてもらったが、この時もすぐには出そうとしなかった。そのうち痛みがあまりにも耐えられなくなったので、もう一度彼女に頼んだところ、私を診察し、「ガナリンさん、子宮口がもう9センチも開いていますから、あと10分くらいしたら生まれてきますよ。今薬を飲んでも効くまでに10分はかかりますから。」と言うではないか。私は分娩台の上で思わずカーッとなって、「私はさっきから何度もお願いしています。薬が効くまで時間がかかるのでしたら、もっと早くくれたらよかったじゃないですか!」と責めてしまった。その若い助産婦さんはとても良くしてくれていたので申し訳なかったが、やはり副作用などを考え、薬はできるだけ使いたくないのであろう。それならそれで、「痛みがきついときは薬があります。」などと言わなければいいと思った。やがて無事男の子が生まれ、それまでの苦しみはあっという間に過ぎ去った。分娩室に入ってから1時間後に生まれたので、先生が最初に「もうすぐに生まれますよ。」と言ってくれていたら、もっと楽だったろうと思う。

息子のベットには息子の名前と可愛い鳥の絵が描かれたカードが掛けられた。二人目を本当に望んでいた私たちだったが、娘が生まれてから6年半目に生まれてきた息子を抱きながら、私は幸福感に浸った。マタニティブルーについて知っていたので、今回は感情の変化は起こらなかった。

出産して3日目、看護婦さんが点滴の支度をして私の部屋に入ってきて、「輸血をします。」と言った。私は輸血を受ける気は全くなかったので、「けっこうです。」とはっきり断った。するとその看護婦さんは私の顔を厳しい顔で見つめて出て行った。しばらくすると例の医者が入ってきて、「出産でかなり出血したので、輸血をした方が回復が早いですから。」と説明した。「貧血はほかの方法で直しますからけっこうです。」と断ると、「どの血液も黄疸とエイズの検査をしてあります。輸血のどこが悪いのですか?」としつこく聞く。分娩時から印象が悪いこともあり、「エイズのウィルスも最初は知られていず、多くの人が感染しました。黄疸とエイズについて検査をしても、まだ私達に未知のウィルスに感染していないという保証がありますか?」とはっきり言ったところ、とても不満そうに出て行ってしまった。

輸血はよほどのことがない限りしない方がいいというのが私の考えである。この話には余談がある。私が息子を出産した1988年に、同じ病院である老人が外科手術を受け、輸血されたが、その輸血液がエイズウィルスに感染されていたそうだ。あとになってそれに気付いた病院側は、本人に知らせると心配のあまり早く発病する恐れがあるため、患者には知らせず、その患者のかかりつけの医者にだけ電話で知らせたそうだ。しかしその医者はその電話を受けた覚えはないという。95年になってその老人が発病したが、かかりつけの医者はエイズとは思わず、適切な治療ができなかったため、その患者は非常に苦しんだそうだ。数年後にその当時の病院長と外科医相手に訴訟が行われ、病院長が有罪となった。恐ろしい話である。

話は元に戻るが、退院直前に小児科医が来て新生児を診察した。前の感じの悪い看護婦さんが私の部屋に入ってきて、「ガナリンさんの息子さんに結核の予防注射をします。」と言った。私が「それは必要ないと思います。」と言うと、また私の顔を厳しい顔で見つめ、その小児科医に、「先生、母親が日本人の場合は必要ですよね。」と耳元でささやいた。先生が必要ありませんと返事すると、私のそばを知らん顔をして通り過ぎて行った。

息子を出産した当時、病室は二人部屋だった。私より数日前に出産したという同室のスイス人女性は、出産のお知らせのカードを何と80枚も送ったそうである。そのせいで、連日大勢の人が訪ねて来て、隣で大声でおしゃべりするので、ゆっくり休むこともできず閉口した。お知らせのカードをもらえば誰でもお義理で病院にお見舞いに行かなければと思うので考え物である。私は是非カードを送ってほしいと言われた友人達だけに送ったので、毎日二人くらいの訪問だったが、30度を超える猛暑だったため、申し訳ないと思った。その婦人が退院した後、別のスイス人女性が入院して来たが、彼女の場合は毎日、夫と子供達だけが訪ねて来た。ゆっくり休みたいから、カードは一枚も出さなかったと話していた。息子の出産で友人や隣人からいただいたお祝いは、やはりベビー服が圧倒的だった。退院時には本当にほっとした。

私が入院中、夫の叔母が娘の面倒を見てくれていたが、退院後は夫が一週間の休暇を取り、娘の世話と家事を手伝ってくれた。その後、幸い娘の夏休みが始まったので、娘だけ夫の実家に3週間預けることができ、私は息子とふたりでゆっくりすることができた。

息子は出産も大変だったが、育児もとても手がかかった。生まれてから13ヶ月間、夜泣きしてほとんど寝ない子だったので、私も睡眠不足でフラフラだった。これについてはまた別の機会にお話しよう。